高尾山の歴史 〜開山から現代まで

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高尾山の歴史は、近代に入るまではそのまま薬王院の歴史でもあります。
奈良時代の開山から現在まで、順を追ってその歴史を見ていきたいと思います。

上の画像:『武蔵名勝図会』(出典:国立国会図書館)より。江戸後期(1813年)の清滝付近。

行基による開山

奈良時代の744(天平16)年、東大寺の大仏造立で有名な「行基」によって高尾山は開かれました。

史料としては、江戸時代の1750(寛延3)年に作成された「高尾山縁起」に初めて記述があります。縁起(寺社仏閣の由来)には、行基が自ら薬師如来像を刻んで祀ったのが薬王院の寺院としての始まりと記されています。

現在、薬王院のご本尊と言えば飯縄大権現ですが、元々は薬師如来をご本尊としていました。
薬王院の名称「薬王」は薬師如来(=医王)からきています。
薬王院の大本堂には、開山本尊である薬師如来と中興本尊である飯縄大権現を安置しているとされていますが、薬師如来は秘仏とされ参詣者はそのお姿を拝むことはできません。

縁起はだいたいが後世の編纂物であることが多く、後世の書き手の恣意的な主観や修辞が入ります。そのため必ずしも正しいとは限らず、近畿地方を中心に活躍した行基が実際に高尾山に訪れたかどうかも歴史の闇の中ですが、高尾山の歴史はここから始まりました。

また高尾山は、行基によって開かれる前から自然信仰的な聖地として認識されていたと推測されています。

俊源による中興

行基によって開かれた高尾山は、その後長きにわたって荒廃した状況が続きます。
開山から約600年後、南北朝時代の1375(永和5)年に京都醍醐寺の俊源大徳が高尾山に来山します。

俊源は高尾山中で十万枚の護摩修法を終えたところ、夢で飯縄大権現を感得しました。
その姿を異人が彫り、霊像を祠に安置したと言われています。
これにより、俊源は高尾山の中興(一度荒廃した寺を再び立派にする)の祖とされています。

俊源が飯縄大権現を感得した場所は琵琶滝と言われていて、現在でも水行道場として修行が行われています。
また異人が飯縄大権現の像を彫った場所は、3号路の「かしき谷(炊谷)園地」とされています。

俊源が飯縄大権現を感得した琵琶滝。

戦国時代

戦国時代、高尾山周辺は後北条氏(小田原北条氏)の勢力範囲にありました。

昔から戦においては武士が寺社に戦勝を祈願しますが、後北条氏も薬王院を祈祷所としています。
1560(永禄3)年、北条氏康が高尾山の薬師堂の修復料として土地を寄進する寺領寄進状が残されています。
この年に後北条氏は越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)の攻撃を受けますが、寄進状には「絶え間なく本意勤行し本意祈念するように」とあり、強敵を迎え撃つ後北条氏が戦勝祈願してる様子が窺えます。
この寄進状は高尾山の様子をリアルタイムに伝える最も古い古文書とされています。

また、長尾景虎が高尾山周辺に攻め入ったときの記録も残されています。長尾景虎は敵にも関わらず、薬王院周辺での軍勢による乱暴・狼藉を禁止する制札(注意を掲示した木の板)を出しました。長尾景虎も軍神として崇められた飯縄権現への崇敬が厚かったことが知られています。

結局このとき後北条氏はなんとか越後軍を退けますが、以後、後北条氏の高尾山への帰依は一層厚くなります。
氏康の三男、北条氏照は滝山城を本拠として多摩地域の平定を行いますが、高尾山へ土地を寄進しています。
高尾山内の竹木伐採を禁じる印判状や、御開帳に訪れる参詣者に押買狼藉を禁じる制札も残されていて、高尾山と薬王院を保護していることが窺えます。

もっとも竹木伐採の禁止は、豊富な森林資源を軍需物資として重視していたためでもあります。
1569(永禄12)年に武田軍が小仏峠を越えて侵入してきた後、小仏峠の防衛を強化する資材とするため、高尾山内の木々の伐採を認めています。

その後、氏照の本拠は八王子城に移りますが、1590(天正18)年に豊臣秀吉率いる連合軍の攻撃により落城し、本城小田原城も降伏し後北条氏の時代は終わります。
この落城の前に、高尾山主(薬王院貫首)が八王子城で敵軍敗退の祈祷を行ったとも言われています。

江戸時代

苦難の時代

庇護者であった後北条氏の滅亡に伴い、薬王院はしばらく苦難の時代を迎えます。
江戸時代に入り、大久保長安が八王子の街を開発し、高尾山内の竹木伐採禁止を指示しますが、書状には山林のこと以外は記されていません。

戦国期から江戸時代始めのことを書いたとされる「薬師堂収蔵に関する勧進帳」によると、この時期、一院以外の坊が失われ、薬師堂は失われ本尊薬師如来が雨ざらしになっている、という記述があり、荒廃していた様子がわかります。
荒廃した原因は明らかにされていませんが、戦乱のためか幕府の方針のためでしょうか。

寛永年間の再興

その後、薬王院の伽藍が再び整備されるのは、寛永年間(1624〜44)を待たなければなりません。
現在本堂近くに、1631(寛永8)年に鋳造されたとされる古い鐘「寛永古鐘」が保存されていますが、その銘に再興の様子が記されています。

鐘もなくなった薬王院では、鐘の鋳造を目的とする勧進(寄付を募ること)が行われました。
それまでの不遇に比べ勧進は順調にすすみ、半年ほどで鋳造は実現しています。
鐘の銘によると、檀徒が一致協力し高尾山を再興させたようで、急速に寺勢を盛り返していきます。

寛永年間に鋳造された「寛永古鐘」。本堂前に保存されている。

同じ寛永年間にお堂の再建もすすみます。
現在本堂が建つ場所には、その昔、3つのお堂が並んでいました。
中央には薬師堂、左に護摩堂、右が大日堂。これらも鐘の鋳造と同じ時期に建てられたと推定されています。
ちなみに薬師堂は高尾駅近くにある「大光寺」の本堂として明治時代に移築され、護摩堂は現在の奥之院として場所を移して残されています。
大日堂はこの当時の建築ではないですが、現在は大師堂として本堂横に移されています。

現在の奥之院。昔は本堂の場所にあり護摩堂であった。

幕府との関係

寛永古鐘の鋳造された1631(寛永8)年には、幕府は高尾山中の通り抜けを禁止する文書を出しています。
犯罪者や「出女」といわれる大名の妻子が小仏関を避けるため、高尾山の参詣者に紛れて関所を迂回するのを防ぐためでした。

また1648(慶安元)年、三代将軍家光は薬王院へ朱印地(寺領)75石を安堵(認可)しています。

高尾山主(薬王院貫首)は将軍へ拝謁するため、度々江戸城に赴いていたようです。
用件は将軍代替わりのときの挨拶や正月の年頭御礼などでした。
非常に重要な務めであったようで、薬王院文書には手続きや旅程を細かく記した冊子が残されています。

江戸時代中後期

薬師如来と飯縄大権現のご利益

高尾山は病気を治す仏、薬師如来の山として信仰を集めていました。
江戸時代中期、高尾山は紀伊徳川家の帰依を受けていましたが、子息・息女の疱瘡(天然痘)除けなど病気関連の祈祷・護符の依頼が盛んだった記録が残されています。

1729(享保14)年には現存の飯綱権現堂が建立され、飯縄大権現が薬師如来と並び高尾山の本尊としてクローズアップされるようになります。
飯縄大権現は不動明王の変化身ですが、この時期、江戸で不動信仰が人気だったことがその一因とも考えられています。
本所、湯島、新宿、両国で、飯縄大権現の出開帳(他の場所に出かけて寺社の秘仏を開帳すること)が行われた記録が残っています。
飯縄大権現には悪魔降伏の利益があり、科学の発達していない時代では病気などの災厄は疫病神や悪魔の仕業と考えられていました。薬師如来同様、飯縄大権現も病気平癒のご利益があるとされていました。

江戸中期に建立された飯綱権現堂。

病気平癒以外にも、火事が多かった江戸で「火伏(火難除)」、養蚕・織物業が盛んな農家で「蚕守」の御札もありました。高尾山のふもと八王子は養蚕によって生み出される生糸と絹織物の一大集積地で「桑都」とも呼ばれ、「蚕守」のご利益が求められていました。

このようなご利益で檀家や信徒を増やし、江戸中後期は高尾山信仰が盛んとなり、開帳などの行事では「おびただしき高尾参り」との記録が残されています。

講と薬王院

江戸時代には庶民の富士山に対する信仰が盛んになりました。
「講」は参詣を目的としたグループですが、有名なものに富士山へ参詣登山するための「富士講」があります。
「富士講」が富士参詣の途中で高尾山に参籠する記録が多く残っています。
当時は関所があったり費用もかかるので、代表者だけが富士山まで行き、他の者は途中の高尾山までという形式が一般的だったようです。
富士山と高尾山の両方を信仰する「両山講」も盛んでした。

「富士講」以外にも講は多くあり、講と薬王院の関わりは深く、奉納や寄進が多く行われていました。
今でも高尾山では講が残した石碑を多く見ることができます。
江戸時代に高尾山発展に尽くした「足袋屋清八」という人物がいます。
多くの道標建立や五重塔再建などに関与した清八も講の先達でした。

足袋屋清八の建立した道標のひとつ。薬王院境内に保存されている。

明治時代

神仏分離令

明治政府は神道国教化のため、1868(明治元)年に「神仏分離令」を発しました。
それまでの日本では神社と仏教は厳密に分けられず神仏習合というかたちが一般的でしたが、これを明確に分けることが求められました。
廃仏毀釈の流れで仏教を廃止するところが多かった中、薬王院は仏教寺院としての道を選びます。
当時高尾山のふもとには、現在の1号路入口に「一之鳥居」と呼ばれる大きな鳥居がありましたが、神社色を払拭するため鳥居を壊しています。飯縄権現堂(本社)の前にも「二之鳥居」がありましたが、同じく壊されています。(本社前の鳥居は後に再建。当時の鳥居は階段の下にあり、現在階段の上にある鳥居とは場所が変わっています。)
また、「権現」号が神仏不分明ということで禁止されたため、飯縄大権現は便宜上「飯縄不動」と呼び名を変えることになります。

神仏分離令に伴い「修験禁止令」も出され修験道が禁止になるなど、この時期薬王院には大きな障壁が立ちはだかります。
しばらくして極端な神仏分離策はなくなり、飯縄大権現の名は復活しますが、修験道は戦後まで禁止されました。

1813(文化10)年の清滝付近の様子。清滝と不動院の間に今は存在しない鳥居がある。『武蔵名勝図会』(出典:国立国会図書館)より。

その他の出来事

1880(明治13)年に、明治天皇が甲州巡幸の際に、小仏峠を通り休憩しました。
馬車は通れないので、輿(こし)に乗り換えて峠を越えたようです。
これを記念して小仏峠には「明治天皇小佛峠御小休所阯及御野立所」の碑が作られています。

1886(明治19)年に、現在の本堂がある位置に建っていた「薬師堂」が、台風による豪雨と裏山の崩落のため崩壊します。
薬師堂の左右にあったお堂は、それぞれ現在の奥之院と大師堂の位置に移され、その場所に現在の本堂が1901(明治34)年に建立されます。

1888(明治21)年には、甲州街道が小仏峠を通るルート(現在の裏高尾)から、現在の大垂水峠を越える道へ路線変更されました。
これは東京から山梨への道路は、車両が通れる規格であることが望まれたためです。

1889(明治22)年には、高尾山全域が帝室御料林となりました。
明治時代になり、江戸時代の大名の山林は国有林に、徳川家の山林は御料林となりました。
高尾山は将軍から朱印地として領地を認可されていたので、そのまま御料林になったかたちです。
御料林は宮内省が管理し、今の「多摩森林科学園」と多摩陵の一部もその範囲に含みました。

1901(明治34)年には、八王子駅〜上野原駅間で官設鉄道(現・JR中央本線)が開通し、浅川駅(現・高尾駅)が開業しました。

1902(明治35)年には「山内八十八大師」が発願され、翌年高尾山内で完成しています。

大正・昭和

「多摩陵」の造営

大正天皇が崩御されると、高尾山の近くに「多摩陵」(大正天皇の墓地)が造営されました。
1927(昭和2)年から一般の参拝が許されるようになると、全国各地から参拝客が訪れるようになり、近くにあった高尾山にも多くの人が訪れるようになりました。
ちょうど同じ年の1927(昭和2)年に高尾山ではケーブルカーが開業します。
多摩陵と高尾山を組み合わせて観光する客も増え、観光名所となりました。
ケーブルカーは薬王院貫首の発案により大正中期より計画が進められ、1925(大正14)年に着工し、1927(昭和2)年に開業しました。

高尾山へは、1913(大正2)年に八王子市街からバスでアクセスできるようになっていましたが、1930(昭和5)年に「武蔵中央電気鉄道」が浅川駅前〜高尾橋間を開通させ、甲州街道を軌道電車が走りました。(軌道電車は業績悪化で1939(昭和14)年に廃止されます)

1930(昭和5)年に出版された『京王電車 沿線名所図絵』。当時の高尾山周辺の交通の様子がわかる。京王線も御陵線だった。『京都府立京都学・歴彩館 京の記憶アーカイブ』より。

多摩陵付近には宿泊施設もなかったため、高尾山の旅館に宿泊する観光客も多かったようです。ふもとのそば屋「高橋家」は当時旅館を営んでいました。他にも6号路に向かう道沿いなどに旅館がありました。

江戸時代の天保年間(1830~43年)創業の高橋家。その昔は旅館だった。

観光開発

1967(昭和42)年、高尾山口駅まで京王高尾線が開通します。
これにより都心から多くの人が高尾山を訪れるようになり、観光客や参拝客が増加していきます。

1969(昭和44)年には、陣馬山山頂に白馬像が京王電鉄から寄贈され建てられました。
それまで小仏城山からは相模湖に下りるコースが一般的でしたが、徐々に陣馬山方面へと縦走する人が増えていきます。

また、1961(昭和36)年、現在のビアマウント展望台の上に「ゴンドラ」(展望塔)が建設されました。8人乗りのゴンドラが4台あったそうですが、1979(昭和54)年に事故があり撤去されています。

自然公園に指定

昔から武将や時の政府に保護されてきた高尾山は、戦後は東京都や国に自然公園として指定され、引き続きその豊かな自然が守られていくことになります。
また自然教育の場としても利用されます。

  • 1950(昭和25)年 都立高尾山自然公園に指定される
  • 1966(昭和41)年 都立高尾陣場自然公園へ名称変更、区域変更
  • 1966(昭和41)年 日本初のオリエンテーリング大会が高尾山で開催
  • 1966(昭和41)年 東京都高尾自然科学博物館が開館(2004(平成16)年に廃館)
  • 1967(昭和42)年 明治の森高尾国定公園に指定される
  • 1969(昭和44)年 高尾ビジターセンター開設(日本で初めて解説員が常駐するビジターセンター)

ふもとでは昭和30年代に、国民宿舎やユースホステルといった宿泊施設が開業しています。
「国民宿舎高尾山荘」は、1960(昭和35)年に開業し、1998(平成10)年に閉業。
ふもとの1号路沿いにありました。
「高尾ユースホステル」は、1964(昭和39)年の東京オリンピック時に選手村として自転車競技の選手が宿泊する施設として建てられます。その後30年ほどユースホステルとして利用され、1997(平成9)年に閉館。
現在の林野庁「高尾森林ふれあい推進センター」の場所にありました。

平成・令和

2005(平成17)年に、国土交通省の選定する「関東の富士見百景」に選出されます。

2007(平成19)年には、フランスのタイヤメーカー「ミシュラン」が発行している観光ガイド「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で、最高ランクの三つ星観光地に選出されます。
これにより高尾山は外国人観光客が増加し、世界的な観光地となりました。

2012(平成24)年には、圏央道の八王子JCT〜高尾山IC間が開通。
高尾山には圏央道のトンネルが貫通していて、位置としては裏高尾の蛇滝口付近と南高尾の梅の木平付近を貫いています。
開通までには28年に渡る反対運動がありました。

八王子市は2012(平成24)年から高尾山口駅を含むふもとの整備を計画し、2015(平成27)年に、「高尾山口駅」が建築家 隈研吾氏のデザインでリニューアルされ、同年、東京都高尾自然科学博物館の跡地に「TAKAO599MUSEUM」もオープンします。
この年に、現在お馴染みのふもとのランドマークが完成しました。

2020(令和2)年になると、「霊気満山 高尾山 ~人々の祈りが紡ぐ桑都物語~」という高尾山と桑都八王子、後北条氏の八王子城・滝山城で構成したストーリーで日本遺産に認定されます。

参考文献

  • 「高尾山薬王院の歴史」外山徹 著
  • 「高尾山報」高尾山薬王院 発行
  • 「浅草と高尾山の不思議」川副秀樹 著